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敷地内へ戻り、塀に沿って更に北上。左側に見えてくるのが地図「31」の「Soviet Special Camp Museum」。
実は第二次大戦後の1945年8月から、ソ連内務人民委員会(NKWD)がここを第7特設収容所とし、火葬場と殺害施設以外の
殆どの建物をこれまでと同様の目的で使用。1950年3月に閉鎖されるまで計約6万人が収容され、そのうち少なくとも1万2千人が栄養不良や病気で命を落としたと言われています。
ここはその時代の展示室。凄い数の資料!
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ここザクセンハウゼンは、1943年から敗戦までイギリス経済撹乱を狙ったドイツによるポンド紙幣贋造計画、通称「ベルンハルト作戦(Aktion Bernhard)」の舞台となった収容所。
実際に贋造したのはユダヤ人技術者たち。
その時の資料が展示されているのが、地図「22・Prisoner's Kitchen」の上から見た左側の建物。
真ん中の写真が、その中心人物の1人だったアドルフ・ブルガー(Adolf Burger)の似顔絵で、左に写っているのが、彼が実際に着用していた囚人服。
他にも各種書類や、偽造に使われた刻印なども展示されています。
第80回アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画「Die Falscher(邦題は「ヒトラーの贋札)は、ベルンハルト作戦を取り上げた作品。DVD化されているので、興味のある方はどうぞ。
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右側の建物は資料館。写真は左から拷問具、囚人服、簡易ベッド。他にも当時の遺物や写真等が多数展示されています。
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ここは右側建物の地下。
壁には囚人が描いた(?)と思われる絵が残されていますが、解説がなかったので詳細は不明。
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ここは地図「17・Prison」、独房です。多くの房の中に、写真や解説板がありました。
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独房の外にあるこの杭は、囚人を後ろ手に縛って吊るし上げるための柱。
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ここは地図「15・Barrack38」と「16・Barrack39」、ユダヤ人用のバラック。Barrack38の内部には粗末なベッド、風呂、トイレが残されています。
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Barrack39の内部は、きれいに整備された展示室。
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正門の手前右にあるのが、地図「8」の新博物館。
入って正面に飾られているステンドグラスは、後年になって造られたものかな?
こちらの展示物の数も半端ではありません。
当初は1時間くらいで見学を切り上げる予定でしたが、この広さと内容ではとても無理。
かなりの急ぎ足でも1時間半、ゆっくり見るなら丸1日必要です。
入場料は新博物館も含めて全て無料。
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11:08発のバスに乗り(バスは平日1時間に1本、土日は2時間に1本)、オラニエングルク駅着が11:15。Sバーンでベルリン北駅(Nordbahnhof)へ移動し、歩いてベルリン自然史博物館(Museum fur Naturkunde Berlin)へ。
最大の見どころは、入口ホールに展示されているブラキオサウルスの骨格標本。
高さ13.27メートルで、世界一背の高い骨格標本としてギネスブックにも掲載されています。
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左が大アルマジロの化石、右がカルカドロン・メガロドンの歯形。
比較物がないので分かりにくいですが、どちらも巨大!
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その他の展示物は、各国の自然史博物館と大差なし。
しかも2階から上は倉庫なのか整備中なのか、現在閉鎖中。入場料は3EUR。
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バスとSバーンでアレキサンダープラッツ駅(Alexander Platz)へ移動し、テレビ塔(Fernsehturm)下のレンタサイクル店「FAT TIRE」へ。
ベルリン市内を見て回るなら、電車+徒歩よりも自転車の方が断然便利! 料金は4時間で7EUR。
借りるにはパスポート等のID(コピー不可)かクレジットカードが必要。
チェーンロックは無料で貸してくれます。写真が借りた自転車。
日本にはないデザインですね〜。車体は重いけど、3段変速ギア搭載。
目的地は予め日本でGPSに登録済み。いざ出発!
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最初に向かったのが、昨日行けなかったトレプトウ公園(Treptow Park)。
ここに旧ソ連によって建てられた第二次大戦戦勝記念碑があります。
入口の両側には、赤旗をモチーフとした巨大なモニュメント(多分高さは20m以上)と、その下に自動小銃を持ってひざまずく兵士の銅像。
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その奥に、高さ12m、重さ70トンのソビエト兵の立像があります。
右手に剣、左腕に幼い女の子を抱え、軍服をマントのように羽織ったその英雄然とした姿は、如何にも共産主義的。
良く見ると、軍靴でナチの象徴ハーケンクロイツを踏み潰しています。
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第二次大戦後、ベルリンは東西に分割され、東側を旧ソ連、西側をアメリカ・イギリス・フランスの西側諸国が占領。1948年に入ると、分割占領された首都全体をどこが支配するのかを巡って東西が対立。
4月に入ると旧ソ連は検問を強行し、西ベルリンへの物資搬入を制限。5月には東側領域で通貨改革を実施すると宣言。
これに対して西側も6月20日より西側領域でも通貨改革を実施すると公表。
反発を強めた旧ソ連は、6月24日から西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施。
東側占領地域からの電力供給も停止されました。
これが世に言う「ベルリン封鎖」。
これに対して西側諸国は、燃料や生活物資を全て空輸する「ベルリン大空輸」で対抗。
結局西側の作戦が勝り、旧ソ連は1949年5月12日に封鎖を解除しました。
その空輸の舞台となったのが、今は廃港となったテンペルホーフ空港(Flughafen Berlin-Tempelhof)。
空港の脇には「空の架け橋広場(Platz der Luftbrucke)」 が造られ、そこには空輸作戦の記念碑が建てられており、その周りにはこの作戦で命を落としたパイロットの名前が刻まれています。3本の主柱は、西ドイツと西ベルリンを結んだ3本の飛行ルートを表しています。
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ここはベルリン・ドイツ技術博物館(Deutsches Technikmuseum Berlin)。
時間がなかったので入れませんでした。
外に飾られている飛行機は、ベルリン大空輸で使われたC-47輸送機。今度ベルリンに来たら必ず入場するぞ!
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自転車を北へ走らせニーダーキルヒナー通り(Niederkirchnerstrasse)へ。
この通りは戦前プリンツ・アルブレヒト通り(Prinz-Albrecht-Strasse)と呼ばれ、ここには親衛隊帝国保安主務局(RSHA)や、悪名高い秘密警察ゲシュタポの本部がありました。1980年代の西ドイツ再開発の作業中、地中からゲシュタポ本部の
地下室や独房が見つかり、歴史に関心の高い市民団体が当局を説得。1987年からテロの地誌(Topographie des Terrors)という常設展を開始、今は立派な資料館となっています。
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写真と説明文によって、親衛隊やRSHAの歴史を知ることができます。
地中に埋まっていた建物の一部も、そのまま保存・展示されています。
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現ドイツ連邦財務省。
元々は第二次大戦前の1935年9月から1936年8月の間に、ヘルマン・ゲーリング(Hermann Goring)の命令で建設された帝国航空省。
当時、ヨーロッパで最も巨大なオフィスビルだったそうです。
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この建物は戦災を免れたため、東ドイツの中央政府ビルとして使われたほか、人民議会の議場も置かれました。
そのせいか、今も外壁には社会主義時代の壁画が残っています。
描かれているのは労働者と子供、旗を持ち拍手をしながら行進する男女、アコーディオンを中心とした楽団。如何にも共産主義国! まるで将軍様が支配する、あの国みたい。(笑)
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1945年4月29日、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は総統地下壕(Fuhrerbunker)で愛人のエバ・ブラウンと結婚式を挙げ、翌30日にピストル自殺を遂げたと言われています。
その地下壕が再開発中に発見されましたが、当局はネオ・ナチの聖地となることを恐れ、そのまま埋め戻しました。
現在その場所は駐車場になっていて、歴史を研究する市民団体が立てた説明板以外に、地下壕があったことを示すものは何一つ残されていません。
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ここは地下鉄U2のモーレン・シュトラッセ駅(Mohrenstrasse)。
ホームの壁や柱に、赤い大理石が使われています。
ナチの建物には、カギ十字の国旗と民族の血を表す目的で、よく赤い大理石が使われました。1950年代に総統官邸が取り壊された際に廃材となった赤大理石が、ここに使い回されたらしいです。
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ブランデンブルク門((Brandenburger Tor)から南へ100mほどの場所に、2711個ものコンクリート製ブロックが置かれています。
ここは虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑(Denkmal fuer die ermordeten Juden Europas)。
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大きさや高さはバラバラ。
特に何かを表現したものではなく、個々人で何かを感じてほしいってことなのかな?
慰霊碑にも墓石にも棺桶にも見えます。
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↑の脇の通りに停まっていたトラバント。随分レストアしてあるようですが、まだまだ現役です。
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ここはベンドラーブロック(Bendlerblock)の中庭。1944年7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件で逮捕されたフォン・シュタウフェンベルク(von Stauffenberg)をはじめとするクーデター参加者は、翌7月21日にここで銃殺されました。
壁には犠牲者を悼むプレートが取り付けられ、象徴としてブロンズ像も置かれています。
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ベントナーブロック前の通りは、東西統一後に「シュタウフェンベルク通り」と改名されました。
この事件の詳細は、2009年にトム・クルーズがシュタウフェンベルクを演じた映画「ワルキューレ(Walkure)」を観れば
分かります。
ドイツが初めてベントナーブロックでの撮影を許可したことでも話題になりました。
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ここは国立オペラ劇場の西側にあるベーベルプラッツ(Bebelplatz)。
広場の敷石の一部がガラス張りになっていて、そこから地下を見ると白い本棚が並んでいるのが見えますが、なぜか本は一冊も置かれていません。
ここは1933年5月10日に焚書が行われた場所。ナチ党員や学生がドイツ精神に反するとされた書物を、次々に火の中へ投げ入れました。
犠牲になったのはフランツ・カフカ、カール・マルクス、ハインリッヒ・ハイネ等の書。
ハイネは1821年に発表した詩集の中に、「本が焼かれると最後には人間も焼かれる」と書きましたが、この予言が100年以上経ってから的中し、まさか自らの書も焼かれるとは、想像もしていなかったでしょう。
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ここはドイツ歴史博物館(Deutsches Historisches Museum)の裏にある建物。
壁に残る無数の弾痕は、第二次大戦末期のベルリン攻防戦の爪痕。
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更に自転車を北へ走らせ、やって来たのはベルナウアー通り(Bernauerstrasse)。
ここは東ベルリンと西ベルリンの境となった通り。1974年までに、この通りに面した全ての建物が取り壊され、ベルリンの壁が築かれました。今は70mに渡って当時に近い状態で壁が保存されています。
東西間の無人地帯、国境警備兵がパトロールした道、監視塔や照明も当時のまま。
通りを挟んだ反対側にはベルリンの壁資料センター(Berliner-Mauer-Dokumentationszentrum)があり、屋上からその全体を見ることが出来ます。
右の写真が壁側から撮った写真。中央の階段が金網で囲われている建物が壁資料センター。
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壁の北側には1894年に建てられた宥和教会がありましたが、ベルリンの壁の建設によって無人地帯となり、一時は東ドイツ側の見張り台として使われましたが、1985年に無人地帯の視界を良くするという理由で爆破されました。
今では教会に設置されていた鐘が残るのみとなっています。
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壁の南側には、当時の写真や資料、そして壁を越えようとして射殺された人々の写真などが展示されています。σ(^^)が見学していた時、この射殺された人々の写真の横でイチャイチャしているカップルがいました。
いったいどういう神経してるんだ?
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アレキサンダープラッツへ向かう途中、立派な建物を発見。これはユダヤ教のシナゴーグ。
金色に縁取られたドームはモスクにも見えますが、モスクとも教会とも違う独特な造り。
時間がなかったので、中に入って見ることは出来ませんでした。
FAT FIREに着いたのが、借り受けてからジャスト4時間後。
店の前に自転車を止め、店員に返却って言えば、レジ横のパソコンで処理してくれます。
チェーンロックを返すのも忘れずに!
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18:00にホテルへ戻りカミサンと合流。
地下鉄でヴィッテンベルクプラッツ駅(Wittenbergplatz)へ移動し、歩いて向かったのがカリーヴルストの有名店「Fritz&CO.」。
カリーヴルストとは、焼いたソーセージの上にケチャップとカレーパウダーを振りかけたB級グルメ。
店によってケチャップの味が違うらしいです。
頼んだのはカリーヴルストにフレンチフライ(Pommes)&マヨネーズの全部盛り@6.1EUR。
安くないけど、ビールのお供に最高!
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地下鉄でコッホシュトラッセ駅(Kochstrasse)へ移動し、本日最後に向かったのがベルリンの壁博物館(Museum Haus am Checkpoint Charlie)。
殆どが写真とパネルによる解説(ドイツ語と英語のみ)なので、あまり面白くありません。
入場料は10EUR、内部は撮影禁止。右の写真は、観光用に復元された検問所(チェックポイント)。
チャーリーとは「C」を表す無線用語。A→B→C、つまりベルリンで3番目の検問所って意味。
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