滞在記 第4日目
(2009年5月25日 月曜日)


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注) 1PLN(ポーランド・ズオチ)=約36円。
今日はカミさんと、いきなりの別行動。 と言うのもワルシャワに限らず、ポーランド国内の博物館や美術館、名所旧跡などの殆どが月曜定休。 というわけで、観光は明日以降一緒に行くことにして、今日はお互い行きたい場所(カミさんは買い物)へ行くことに。

ホテルを6:00に出発。数軒Ruch(ルフ)を回ったけど、まだどこも開いてません。 捕まったら罰金払おう!と決め、Okopowa発6:32の13番トラムに乗車。 ところが2つ目の停留所を出発した直後、直進するはずがAleja Jana Pawla U通りを左折して北上。 あれっ!?っと思って見直したけど、乗っているのは間違いなく13番トラム。 いったいどうなってんだ!? すぐに次の停留所で下車。 電車に乗り遅れるわけにはいかないので、すぐにタクシーを捕まえてWschodnia(東駅)へ。 料金は21PLN。こんなことなら最初からタクシーで移動すれば良かった! って言うか、昨日もPl.Zawiszy停留所からホテルまでタクシーに乗れば良かったんじゃん! タクシー移動って考えが完全に抜けてました。(笑)

東駅到着後に調べたら、13番トラムは現在改修工事中。 一部迂回ルートになっていますが、あのまま乗っていれば東駅に着いていたことが判明。
本日最初の目的地は、トレブリンカ収容所(Treblinka Camp)跡。 東駅からMalkinia(マウキニア)までの切符を購入。2等車で21PLN。
7:34発Bialystok(ビアウィストック)行きの電車に乗り、Malkinia着が8:52。 日本出発前に調べたら、トレブリンカを訪れる人の殆どが車かツアーバス。Malkinia駅からバスでトレブリンカまで行った人は皆無でした。 どうやらトレブリンカ行きのバスはなく、運転手に頼んで近くで下ろしてもらうらしい・・・。 帰りの電車まで約4時間しかないので、ここは最初からバス移動は考慮せずタクシーを捕まえることに。
小さな駅だろうとは思っていましたが、実際は想像以上! 駅前広場は舗装すらされていません。 これでタクシーなんて捕まるのか? と思っていたら、運良く(?)スタンドにポツンと1台。 「トレブリンカキャンプ」と言ったら「OK」と返ってきたので、早速乗り込んで出発。

駅からおよそ30km、約30分で到着。 運転手は一言も英語が話せないので言ってることはサッパリ分かりませんが、どうやらジェスチャーから判断すると、マウキニアからトレブリンカを直に結ぶ道路はなく(元々ないのか工事中などの理由かは?)、迂回するようなルートしかないらしい。 確かにトレブリンカと書かれた道路標識に沿って走ったので、その言葉に嘘はないようです。 地図を見ると、マウキニアからトレブリンカまでは直線で10km程度なのですが。

これが現地の駐車場。小さな管理事務所兼案内所兼土産屋とトイレがあるだけ。 もちろんタクシースタンドなんてありません。 そこでタクシーの運転手に頼んで、12:15に迎えに来てもらうことに。 交渉は全てメモとジェスチャーです。
これが全体の構成図。 最も大きいのが、移送されてきたユダヤ人を殺害する目的で建設されたトレブリンカ絶滅収容所(Treblinka Extermination Camp)、通称TreblinkaU。そこから2km離れたところに、強制労働を目的とした収容所Panal Labour Camp(流刑労働者収容所とでも訳すのかな?)、通称TreblinkaT。 更に500m奥にExecution Site(処刑場)がありました。
駐車場から矢印に従って進むと、まずはこのトレブリンカの構成図が彫られた記念碑と、数カ国語でここで何が行われたかが書かれた石碑に出ます。
ちょうど↑の記念碑が立っている場所で、道がY字に別れます。 矢印に従って左へ進むと右の写真の石門に至りますが、ここは曲がらずに真っ直ぐ進みます。
こちらに当時の収容所の見取図があります。 別ウィンドウで開いて見ながら以降を読み進めると、「当時○○があった場所が、現在○○になっている」って分かると思います。
20mほど進むと交差点に出ます。右は森の中へ、左には線路を模した石が林を抜け広場へ延びています。 ここが列車の入口。地図の左上、1番の左の監視塔が建っていたあたりです。 かつては鉄道の支線がマウキニアからこの森を抜け、収容所まで繋がっていました。
線路がh型に曲がり、地図18番の駅に至ります。 線路に沿うように等間隔に立っている石柱は、収容所の境界線を表しています。
ここが移送されてきたユダヤ人を殺害する目的で建設されたTreblinkaU、トレブリンカ絶滅収容所(Treblinka Extermination Camp)です。 老若男女の区別なく、殆どが到着してすぐにガス室へ送られたため、他の収容所に比べて犠牲者の数が突出して多く、生存者も極めて少ないのが特徴。1942年7月〜1943年8月までの約1年間に、少なくとも70万人が殺害されたと言われています。
駅を下りるとすぐに、貴重品を没収され脱衣後に髪を刈られたバラック、地図の25と26がありました。 ちなみにトレブリンカはナチによって徹底的な破壊・証拠隠滅が行われたため、当時の遺構は何一つ残されていません。
地図の22あたりに立っている石碑には、ここへ送られて殺害された人々が住んでいた国名が刻まれています。 ソビエト、ユーゴスラビア、チェコスロバキア、フランス、ポーランド、ブルガリア、マケドニア、ギリシャ・・・。その範囲はヨーロッパ全域に及んでいます。
現在は駅から東へ向かう道が整備されています。 その道を真っ直ぐ進むと広場になっていて、その中央にこの巨大な石碑が立っています。 地図の28と29あたり、かつてガス室があった場所です。高さは10mくらい。 真ん中のひび割れは最初からの造りで、劣化によるものではないようです。
石碑の上部は、幾重にも折り重なった手足、胴体や顔。
石碑の背面。上部はユダヤの象徴とも言える燭台。
この石碑を取り囲むように数千の自然石が配されていて、そこにはここで犠牲になった人々の出身市町村名が刻まれています。
唯一の例外が、この「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と刻まれた記念碑。 ユダヤ系ポーランド人のJanusz Korczakは、小児科医で児童文学作家。 ワルシャワゲットー内に設けられた孤児院の院長でもありました。1942年8月6日、孤児院の200人の子供がトレブリンカへ移送されることが決定。 自身は収容所行きを免除されていたにも関わらず、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、共にトレブリンカ行きの列車に。 到着したその日にガス室で殺害、または銃殺されました。
ここは地図の30番あたり。死体が焼かれて埋葬された場所です。
TreblinkaUから2km先に、強制労働を目的とした収容所TreblinkaT(Panal Labour Camp)の跡地があります。 しかし今は何も残されていません。
1943年8月2日、ここで収容者による武装反乱がありましたが、ナチによって完全に制圧されました(案内板には流血を伴って粉砕されたと書かれていました)。1941年から1944年の間に、およそ10000人のポーランド人が殺害されました。
残っているのは基礎部分程度。 そこに「かつてここは○○だった」と書かれた木製の看板が立っているだけ。
収容所の道を挟んで反対側にある砂利採石場。 説明文がないのではっきり分かりませんが、ここも強制労働場所だったのかな?
更に500m奥へ進んだ場所にあるのが、かつての処刑場。 今は墓地になっています。 殆どの墓標に1942〜1943年に死亡と書かれているので、おそらくTreblinkaTで死んだ人、若しくは反乱を起こして 殺させた人の墓だと思われます。
駐車場まで戻ってトイレへ行ったら、すぐ横に小さな博物館がありました。 まだ真新しい建物なので、つい最近オープンしたと思われます。 しかし博物館と言っても、大きさは普通の2階建ての家。 しかも展示スペースは1階の2部屋のみ。 内容も殆どが写真や説明文で、当時の遺物はわずかしかありません。
これが数少ない当時の遺物。わずかな食器類と、建物や塀に使われていた石材くらい。
外に出たのがちょうど12:15。タクシーは既に駐車場で待っていました。 早速乗り込んで出発です。 そう言えば、さっきの博物館に少しだけ英語が話せる職員がいたので訊いたら、今はマウキニア〜トレブリンカ間にバスはなく、移動は車かタクシーしかないそうです。 最初からバス移動を考慮しないで正解だったようです。
現在のトレブリンカは典型的な寒村。宿泊施設はないし、ヒッチハイクなんてまず無理。 マウキニア駅周辺にもレンタカーやレンタサイクル店はありませんでした。 電車とタクシーで行く場合は、帰りの電車時間確認とタクシーの迎え交渉の2点をお忘れなく! ちなみにタクシーは往復で150PLN。TreblinkaUだけなら、見学時間は1時間で十分です。

13:02発の電車に乗り、ワルシャワ東駅着が14:21。 明後日のプラハ行き夜行バスの時間と発車場所を確認するため、そのまま西駅まで移動。 駅正面がdw. PKS, Warszawa Zachodnia(PKSワルシャワ西駅)。PKSとはポーランド国営(今は民営?)バス会社。チケットにはstan.13,14(13、14番ホーム)と書かれていますが、構内の時刻表には該当バスの時間や発車ホームの案内は皆無。 確かに13、14番ホームには「International」と書かれていますが、当日ここへ来て発車場所が変わったって言われたら洒落になりません!

そこで案内所へ行って「明後日21:00発プラハ行きのバスはここ出発? ホームは何番線?」って訊いたら、何かを見たり確認するなんてこともなく「13か14」って返答。それだけかい! でも確かにチケットに書かれているターミナルとプラットホーム番号はここに間違いないし、ここから出発じゃないとも言われていません。 日本とは違いますから、まあこんなモンなんでしょうね。(笑)

Ochota駅まで戻ってトラムに乗り換え、ワルシャワ蜂起博物館へ。 これがZTMのチケット。ワルシャワもトラム・地下鉄・バスのチケットは共通。 左がルフで買った20分券@2PLN、右が自販機で買った40分券@2.8PLN。 自販機は東駅の前に1台設置されていたのを見ただけ。クラコフとは大違い!
Pl.Zawiszyから2つ目が博物館前停留所。規模も展示内容も予想以上。 入場料5PLNは格安。ポーランド語が分かればね〜。
館内には空爆や心臓の鼓動などの効果音が流れています。 やや演出過剰の感あり。
武器も沢山展示されています。右はトカレフ。 今でも日本のヤ○ザ御用達として、バリバリ現役活躍中!(笑)

博物館からトラムを乗り継いでDw.Centralny停留所で下車、歩いてZlota通りへ。 このZlota通りとSienna通りの間に、ゲットーを取り囲んでいた壁が2つ残されています。
第二次大戦中、ナチスによってヨーロッパの多くの都市にゲットーが設けられました。 ゲットーとは、ユダヤ人を強制的に移住させた地区のこと。 ワルシャワ・ゲットーは、その中でも最大規模。大ゲットーと小ゲットーの2つのゲットー(広さは市域の2.4%)に、実に人口の30%にあたる38万人が押し込められました。 ユダヤ人はダビデの星の腕章を義務付けられ、出入りは禁止。 監視は厳しく、脱出防止の高い壁や有刺鉄線が敷かれ、逃亡者は射殺されました。

こちらの壁は高さ5m以上。異様な威圧感があります。
こちらの壁の高さは2mほど。後ろに文化科学宮殿が見えます。
2つの壁はどちらも通りに面しておらず、Zlota通りとSienna通りの間に建つ集合住宅の中庭にあります。 案内板等もないので、知らずに行くと見つけるのに苦労するかもしれません。 高い方の壁はZlota通りの「62」と書かれた下の門を入って最初の中庭の右側に、低い方の壁は、更にもう1つ北側の中庭にあります。
Zlota通りから徒歩10分ほど、シナゴーグ近くのProzna通りにゲットーの建物が残っています。2階から上が居住スペースで、今でも住んでいる世帯がいくつかあり、1階にも営業している店舗が数軒ありますが、近々ユダヤ系の財団が買い取って博物館にする計画があると聞きました。
ゲットーの壁と建物が残されている場所がもう1つ、トラムのNarblin停留所北のWalicow通りにあります。 壁を当時のままの状態で残し、その上に近代的なビルが建てられています。
その前に建つ古い建物。こちらは荒れ放題の廃墟って感じ。 イスラエルからの修学旅行生が見学に来てました。
ワルシャワ市内には廃線となったトラムの線路が、今でもそのまま道に残っている通りがいくつかあります。 ここChlodna通りもその中の一つ。 ここは第二次大戦中、大ゲットーと小ゲットーを分けていた通り。 映画「戦場のピアニスト」の中で、トラムの通過を待っていた人たちが、ドイツ軍兵士に踊りを強要される場面がありますが、その場所がここです。 その後、大ゲットーと小ゲットーは木製の歩道橋で結ばれるようになりました。
ホテルへ帰ったら、もうカミさんは戻ってました。1日中買い物でワルシャワ市内を歩いたけど、たいした収穫はなかったそうです。σ(^^) も終日歩き通しだったので足がパンパン。 夕食はホテル正面のコンビニへ買い出し。 違う銘柄のビールを1本ずつ買って飲んだけど、どれも美味! しかも値段は1本115円〜140円くらい。ビール党には天国です!



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