滞在記 第5日目
(2009年5月26日 火曜日)


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注) 1PLN(ポーランド・ズオチ)=約36円。
Okopowa発6:32の13番トラムに乗車、Wschodnia(東駅)に着いたのが7:05。 通常なら20分ほどで着くようですが、現在は迂回ルートのため30分以上を要しました。 東駅発7:24の電車に乗って向かったのがルブリン(Lublin)。 料金は大人片道2等車で36PLN。これが東駅。駅舎はそこそこですが、中身はローカルな佇まい。
ルブリン中央駅(Dw.Glowny PKP)着は定刻の9:45。 最初の目的地はマイダネク強制収容所(Majdanek Concentration Camp)跡。 マイダネクまでは28番のバスで行けますが、次の出発時間が10:28。 時間が勿体ないのでタクシーで移動、23PLN。
この収容所跡には昨日訪れたトレブリンカと違い、当時の遺物が多数残されています。
展示棟に一番近い駐車場から入って、すぐ右にあるのがこの41号棟。 ここへ移送されてきた人が、まず最初に連行されたのがここ。 最初の部屋で髪を刈られます。 髪の毛は繊維に加工されましたが、ここだけで730kgの毛髪が集められ工場へ送られたそうです。
労働に適すると判断された人は次室でシャワーを浴び、消毒液で満たされたコンクリート製のバスタブに浸けられ、消毒された囚人服に着替えさせられます。 シャワーと下着の着替えは数週間に1回程度。
労働に適さないと判断された女性や子供、高齢者が送り込まれたのが、一番奥のガス室。 壁や天井に、青酸ガスによる青いシミがべっとりと付着しています。1942年9月から1943年9月までの1年間で、78000人が殺害されたと推定されています。 ガス室はしばしば、囚人服の消毒にも使われました。
ガス室入口の分厚い鉄製の扉。 中の様子を見るための小窓があり、ここから全員が絶命したことを確認。 天井の換気口が開けられ、その後に遺体が搬出されました。
木造のバラック群も残っていて、その中のいくつかが展示棟になっています。
これがチクロンB。缶を開けて空気に触れると青酸ガスが発生します。 消毒や殺虫に用いられていたものを、殺人ガスに転用。 誰が最初にそんな恐ろしいことを思い付いたのか・・・。
左は当時の警告看板。右は犠牲者の靴の山。 写真では伝わりにくいのですが、凄い量です。 全体ではこの写真の3倍くらい。
二重の有刺鉄線で仕切られた隣が住居用のバラック群。 中には粗末な3段ベッドが置かれています。
バラック群を抜けると見えてくるのがこの霊廟。 こちらも写真では伝わりにくいのですが、円形の屋根の直径は20mくらい。 「これは私たちからの警告です」と大きくポーランド語で書かれています。
その中に文字通り山のように積まれているのは、人間を焼いた灰。
霊廟の隣にあるのが死体焼却場跡。 焼却炉が完全な形で残されているのは、ここマイダネクだけ。 建物に入ってすぐの部屋に置かれているのがこの解剖台。 ここで死体から金歯や銀歯、飲み込んだ宝石などを取り出しました。 処置が終わった死体は隣の部屋へ。 その隣の部屋が、焼却用の燃料置き場。
更に奥へ進むと焼却炉があります。燃料はコークス。 発生した熱は管を伝わって回収され、シャワーの熱源などに使われました。
死体を乗せた鉄製の担架も残されています。 灰の一部は肥料としても使われたそうです。
左はガス室からここまで死体を運んだ貨車。15年前にここを訪れた時は、ガス室から焼却棟へ続く線路が途中まで残されていましたが、現在は撤去されていました。 右は元々はトラックのシャシーですが、焼却待ちの死体を積み上げておく場所に流用されました。
霊廟から真っ直ぐに延びる道をバス通りまで行くと、入口にあるのがこの巨大なモニュメント。 何を表しているのかな? 文字? アップで見てもトレブリンカの石碑と違って、何かの集合体ではないようです。
マイダネク記念碑前(Majdanek-Pomnik)停留所から11:52発の156番バスに乗ってクラコフ門前(Brama Krakowska)停留所で下車。所要約15分。 クラコフ門は中世にルブリン市街防衛のために建てられた城門。 当時ポーランド王国の首都だったクラコフの方角を向いていることからこの名が付きました。 現在は旧市街への入口。
ルブリンのバスとトロリーバスの切符は共通で、1回券は2PLN。 切符は駅近くの店で買っておきました。
まずは腹ごしらえ。入ったのはルブリン城へ向かうGrodzka通りにあるレストランMAGIA。 通りに面したテラスや店内にも席はありますが、選んだのは中庭席。
σ(^^)が頼んだのが豚肉のソテーとニョッキのゴルゴンゾーラソース、カミさんはパンケーキ。 どちらも超美味! 前者が35PLN、後者が18PLN。 ビールが500mlで7PLN。店で飲んでも250円、超安!
食後ルブリン城(Zamek)まで歩き、城内の博物館と聖三位一体礼拝堂(Kaplica sw Trojcy)を見学。 入場料はどちらも7.5PLN。 撮影料が高かったので写真はなし。礼拝堂内は撮影禁止。
こちらは城の中庭。ここまでは入場料を払わなくても入れます。
こちらは改装中だった大聖堂(Archikatedra)。内部は必見! しかも入場無料!
最後にJezuicka通りに面したカフェで休憩。 店名は忘れましたが、ここはユダヤ料理が食べられるようです。 お腹に余裕があったら食べてみたかった!
クラコフ門前停留所15:32発の1番バスに乗って中央駅へ。所要約10分。 駅舎はきれいになっていましたが、基本的には15年前と変わっていません。
今はホームにきれいな売店がありますが、当時は掘っ建て小屋のような小さな店が1軒あるだけでした。 当時喫煙者だったσ(^^)は、この売店でタバコを買おうと「マルボロ1つ」と言ったら、封が開いて中に数本しか 入っていない箱を出されました。 見すぼらしい格好をしているから1本恵んでやるってことか?  と思ったらそうではなく、1本売りだったのです!  当時外国産のタバコの値段は、ポーランド製の約3〜4倍。だからこんな制度があったんでしょうね。
ルブリン発16:15の電車に乗り、ワルシャワ東駅着が18:35。13番トラムに乗ってOcopowaへ向かう途中、σ(^^)だけStawki停留所で下車。 最初に向かったのが「死の待合場」と呼ばれたUMSCHLAGPLATZ(ウムシュラークプラッツ)。 元々はグダニスク方面行き貨物列車の集荷場でしたが、1942年からゲットーにいたユダヤ人を絶滅収容所 (トレブリンカ)へ送る列車の発着場となりました。
映画「戦場のピアニスト」の中で、シュピルマン一家がゲットーから追い立てられてきたのがここ。 主人公のウワディクは運良くユダヤ人自衛警察となっていた友人に助けられますが、家族は全員トレブリンカへ 送られ二度と帰ってきませんでした。 ウワディクはその後ゲットーからも脱走し、戦争を生き延びました。
現在は空き地になっていて、その一角に貨物列車をイメージしたモニュメントがあります。
ウムシュラークプラッツのすぐ近く、Mila(ミワ通り)とLudwika Zamenhofa(ザメンホフ通り)の交差点に、ゲットー蜂起指導者を追悼するモニュメントがあります。 左写真の塚の上に、右の円形の記念碑が建っています。 ここもイスラエルの修学旅行生が必ず訪れる場所だそうです。
ザメンホフ通りをもう少し進んだ右側の広場に、ワルシャワゲットー記念碑があります。 表側のブロンズ彫刻(像?)は、1943年のゲットー蜂起の様子。
この辺りには、これと同じ記念碑(?)が各所に設置されています。 ウムシュラークプラッツからザメンホフ通りを南下してワルシャワゲットー記念碑までの間に、少なくとも5つはありました。 英語の説明がないので詳細は不明ですが、1940-1943と刻まれているので、ゲットーに関する何かだと思います。
ホテルに戻りカミさんと合流。 一緒に旧市街の夜景を見に行く予定になっていましたが、カミさんの体調がイマイチ。 まだ先は長いので、無理せずカミさんはこのままホテルに残り、σ(^^)ひとりで旧市街へ。
Ocopowaから13番のトラムに乗車。 普段ならStare Miasto停留所で下りれば目の前が王宮広場ですが、運悪く現在この区間が工事中。 そこで迂回ルートのMost Gdanski停留所で下車し、徒歩で旧市街へ。 片道1km以上あります。写真はジグムント3世像と旧王宮。
クラコフ同様、ワルシャワの旧市街もやんわりとしたライトアップ。 写真は暗いけど、実際はもう少し明るいです。 広場の中央には人魚の像(Pomnik Syrenki)があります。
旧市街北にある、クラコフにもあった円形のバルバカン。
旧市街で何か食べようと思ったら、時間が遅かったせいかどこも閉店。 広場に面したカフェのいくつかはまだ営業してたけど、1人じゃあ味気ない。 そんなわけでホテルへ戻り、近くのピザ屋へ。ところがここも既に閉店。 結局今晩もホテル前のコンビニへ買い出し。 でも焼きたてのホットドッグが当たり! 昨日と違うビールも美味でした。



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